2018年02月27日

クロねこで,す〜

わりと大きな声で,<クロねこで,す〜>とアイソよく呼びかける宅配のおじさんの長閑な声が,窓を閉めていても二階まで聞こえてくることがあります。されど,配達先の家の名をいわないので,どこの家にやって来たのかサッパリわからないことも。明るいうちならともかく,夜だと一体どこの家に来たのやら,かいもく見当がつきません。

ときたま,家内から宅配があるかもしれへんと言われていたりすると,我が家かもと思って,ダダダーっと急ぎ階段おりて玄関をあけてみたら,さにあらず,べつの家だった,なんてこともしばしば。

なので,もし機会があったら,
『 いつもがんばっとりまんな。おれもおっちゃんのファンなんやけど,いっこだけアドバイスがあんねん 』

『 クロねこで,す〜,の前に,〇〇さーん,ってはっきり名指しをした方がエエんとちゃうやろか。おれも,おっちゃんのよく通るエエ声きくたび,もしや,おれんとこかとかん違いするんや。もしかすると,ほかのうちも同じように思ってるかもしれへんな。どうでもイイことやけど,そうするのが,バターやのうて,ベターやで 』

かように助言するチャンスをズーッと待ち続けているのですが,来た時には家内が応対してる等,いつも肩すかし。
自分がごく当たり前と思ってることって,他人はそうではないと感じることって案外多いものです。

あの気配り上手なクロねこのおっちゃんにしても,<わしが呼びかけたら,他のうちの人がもしかして自分のとこかと勘違いしてしまう>ことなど,夢にも思っていないのでしょう。

ただ以前はそうしてたが,かってどこかで,<ワシんとこ宅配が多いやろ,ワシんちの名ぁ呼ばれるとなにやら近所に気まずいさかい次から呼ぶのやめといて>,などと言われ,中断したのかもしれませんね。

あ〜あ,
またしても,どうでもよい,つまらないことを延々と。
ヒマ人の,いつものボヤキゆえ,おゆるしあれ。

2月27日 ふみよ
posted by Don and Mama Mind at 22:05| 周辺 | 更新情報をチェックする

2018年02月20日

わろた,じゃっどん

なんか<わらえる>,じゃっどん<なるほど>

JRAでは,ギャンブル依存者対策として,申告した本人が競馬場やウインズ(場外馬券場)に現れ,まもなく目を血走らせアブなそうな様子を見せるやいなや,<今日はジュンチョよくいってまっか,もうそろそろやめはったらどないでっしゃろ>と声かけするサービスを始めたとか。

なんとか依存症とは,<根っからそうである>場合を除けば,その原因の殆どは<ストレスとか不安>にあるに違いないと想像するのはかたくありません。どれほど食っても腹が満たされない過食症やその逆の拒食症,あるいはDV,買い物依存などとそれほど変わらぬ心理状態なのでは。

ただ,これが自分だけで終われば<自滅=勝手にしやがれ>で済むのですが,妻子や家族も巻きぞえにするとなれば,さあ大変。JRAのヤメナハレの声かけは,<本人申告>を原則としますが,今年中に<家族申告>も可能になるとか。身内にしてみれば,きわめて深刻なことゆえ。

根っからのギャンブルびとは確かに存在すると思いますが,されど大半は上記のストレス性ギャンブラー。勝ち負けではなく,そうすることによって心の安定を保つのだから始末に負えない。おおむねヘタの横好きに近いので,負けっ放し,気づいたときには借財の山。

されど,人とはささいなことがきっかけで,変身できる場合もあります。あの曲,あの詩や小説の,あの人の,ふとしたワンフレーズだけで,<俺の人生は変わった>,という転機の起爆剤になることも。

JRAでは<声かけ>の詳細(運用体制など)を明かしてはいませんが,判定率の極めて高い<顔認識ソフト>などを使ったら,さほど難しいことはない。なので,負けまくってションボリしてるところを,<なあ,おっちゃん。おくさんやお子さんが心配して待っとんで>と人なつっこそうな顔で声かけられたら,ハッと我に返る可能性もあるかもしれないな…

万病のもと,ストレスがなくなることは絶対不可能ですが,それを和らげてくれるのは,機械的な仕組みではなく,対面から発せられる<肉声の温かみ>であることについては,異議なし。
JRAにしては,めずらしく,なかなか小粋(こいき)なはからいをしやがるじゃねえか!

2月20日 いろは
posted by Don and Mama Mind at 07:43| 競馬観 | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

淋淋淋しい

細かなことはさておき,我が国は全世界で101番目,上中下でいえば下,戦乱などで苦しむ国々よりもずっと下方に位置するとか。それは,ソーシャル・キャピタル(社会の信頼関係やネットワークなど<社会組織の重要性>を示す指標)という視点における順位のこと。(ネット記事から)

日本人,とりわけ中高年のオヤジなどは基本的に会社人間,肩書・地位などで担保された枠組みが,定年などで解除されてしまうと,おおむね家での存在感はなく,加えて地域コミュニティとのつながりはほゞ皆無,それに身内や知人,友人なども一年ごとに鬼籍へ入ってしまうし。

途方に暮れてしまい孤独の無間地獄に陥ってしまう。すると,そのストレスがいらぬ病気まで誘発。なので,健康に悪いこと,この上なしと。

また,オヤジだけでなく若衆だって,親が不在がちとかDVが日常茶飯事など環境が劣悪な家庭より,ごく当たり前の家庭に育った子の方が孤独を感じるとか。生きいきと楽しそうに働いてるようには到底思えない親の背中を見てりゃ,夢すらわかず,<こんな風には絶対なりたくねー>,然り。

なんだか自分のことを言いあてられてるようでもあり。ときに,怒れるジイジやバアバが暴走して事件を起こしたりすると,<その背後にあるのは社会構造的な孤独です>とまことしやかな解説がなされたりと。

孤独を形容詞であらわすならば,やや客観的で汎用的な<寂しい>か,すこし主観的で個人的な<淋しい>
生きるうえで便宜的に従わざるをえない社会性という属性のヨロイを脱いでしまえば,生まれるときも逝くときもひとりぼっちの人とは本来,誰もが孤独で淋しい存在なのかもしれません。

……
結局
世界も日々もはじめの時のように
濡れた筵のように重いので
むしろ もし と考えることが何か巨大な淋淋淋しいことなのだ

(藤富さん「説明」より)

2月16日 ひふみ
posted by Don and Mama Mind at 09:33| 諸々 | 更新情報をチェックする

2018年02月12日

とんずら

<とんずら>とはあまり行儀のよい言葉とはいえないので,主に表側を,例外の裏面はなるたけ伏せられ。きよくただしく育った子などが,これをはじめて聞いたとき何を連想するのでしょうか。

とん→トンカツって食べ物があったぞ→そうか,ぶたにくのトンだ。次は「ずら」,カズラ(葛)じゃないよな,現在推量の助動詞(ブタだろう)ではつながりが不自然か。誰かがカツラを略して「ずら」って言ってたけどブタのカツラじゃおかしいな,それに正確には「づら」だし。つらがまえのつら(面)に濁点,ぶたの面構え,これもムリだ。

とんでもない間違いをおかしたことに突然気付いたり,エエかっこしたかったのに力んでスベってしまい,決めるべきところを決めそこなったり,勇をふるい意を決し告白したのに<ごめんなさい>,面目をかんぜんに失ってしまったとき思わず出てくる言葉は,<あながあったら入りたい,このまま消えてしまいたい>などなど。

どれほど動かぬ証拠をつきつけられようが,不利なことはガンとして認めようとせず,いけしゃあしゃあと居直り強盗を決め込む,心が至って頑丈な人もいましたね。が,恥ずかしいと感じたとき,どこかへ逃げ出したくなるのは,謙虚をむねとする和の人には普通のこと。

とんは<遁>と書き,逃げること。忍者が使う<かとん,すいとん,どとんの術>のとんも同じ字。しんにょう(⻌)の中に<盾(たて)>があるのに「逃げる」とは,これいかに。そして,ずらは「ずらかる」の意。字の作り,意とのアンバランスが,なにげ絶妙におかしくて。

何かやましいことや後ろめたいをしてバレる寸前,脱兎のごとくダッシュよく逃げ出すことなので,確かにこれでは品もなければ,行儀も悪い。

されど,<あながあったら入りたい,このまま消えてしまいたい>という逃走,蒸発,消失を希求する心理という点においては,それほど差がないのかもしれません。

2月12日 ひふみ
posted by Don and Mama Mind at 16:23| 諸々 | 更新情報をチェックする

とんぼの

とんぼのメガネはみずいろメガネ あおいおそらにとんだかな とんだかな… という童謡がありましたか。
度なしの,みずいろメガネ,ぴんくメガネ,うすちゃメガネなどを,往年のとんま天狗みたいにハナのうえにちょこんとのせるようになってから,どれほど月日が?

N0771.jpgもともと,娘はストライプ(縞)模様に目をクラクラさせたり,光の点滅(チカチカ)などに過剰に反応することがあり,それを防ぐおまじない(=心理的な安心確保の手立て)として度の入っていない色眼鏡をかけたのが,そもそもの始まり。

ハナうえちょこん,のとんま天狗スタイルゆえ,本来メガネとしての機能は皆無。要するにかけてもかけなくても同じことなのですが,小学生の時に発作を連発したときのことが,どうしてもトラウマとして残っているようで。

『 保険みたいなもんやで,やめたらとたんに事故が起きるっていうやろ。それやがな。あの子が発作起こしたときの怖さを身にしみて知っとるわたしの言うことだから間違いないねん。

N0772.JPG あの子な連盟主催の合宿に参加するやろ。せやけどメガネは今かけてる一本だけで予備がありまへん。それに場所は南半球よって今は真夏やで。おまけに物を乱雑に扱いよるから,しょっちゅうメガネをおしりでつぶしよるさかい,心配で心配でならんわ 』,と家内は先週あたりからソワソワ落ち着かないのです。

 もともとメガネの役目がないんだから,色が薄めの安物サングラスでエエやないか。どっちみちすぐこわすんだし,と私がごく合理的な反論を試みるも,

べーっだ。サングラスはブー,ちゃんとしたのをみつくろわねばあきまへんのや。げつようび一緒に連れてって,ちゃんとしたのを買ってくるで,と取りつくしまもありません。

なので,いつもどおりに,<よきにはからえ>,としか言いようがなく…
されど,心の中は,もったいねぇーな。

2月12日 どれみ
posted by Don and Mama Mind at 10:03| 競泳コラム | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

まほうの平均じゃ

みんなが数年に一度の豪雪だ,やれ苛烈な台風だと困りきっているのに,なぜだかことごとく,ここを素通りしてしまう,と地元の人はやや自嘲気味に。また,ほんの離れたところでは凶暴な大雨,あるいは雪雲でどんより曇りだし吹雪いてきたぞ,フトンや洗濯物を干したままだったと後悔したのも束の間,急いで家にもどってみりゃ雨も吹雪も,そんな気配なんか,どこにもなし。

はげしく地味で著しくかげ薄い,観光以外の自己主張がないばかりか,<自然の天気にさえも嫌われてまんねん>
これがすっかり挨拶がわりに定着してしまったようで。されど,思えば,なんともぜいたくな,たわけた怨み節だこと。本来自然のいじわるがないことだけでも涙を流して感謝せねばならぬのに。

おそらくは,たまたま<平均値>という魔法によって,自然の猛威がたまたま全て回避してくれる,波風の立たない時期にあるだけなのでしょう。変なたとえをするならば,馬券が全くかすりもしない,あるいは惜敗つづきで負けっ放し,それと同じようなこと。

そのぶん,もう少しあとで,もうれつなシッペ返しが続くかもしれません。かって,神戸方面には地震が起こらないというそれほど根拠のなかった当時の神話にしたがい,システムのバックアップ・センターには最適とばかり,その方面に次々と建てられた時期も。

つねづね私は,人生も,自然の摂理・サイクルも,ならしてみれば大差はない,そんなことをバカのひとつ覚えみたいに繰り返しています。どうにもならない逆風の時期と,うそみたいに順風満帆が続く時期。それが,いつ,どこで,どのように出現するのか全然わからないところに,<運>という言葉の存在意義,があるのかもしれません。

2月10日 ひふみ
posted by Don and Mama Mind at 18:07| 諸々 | 更新情報をチェックする

繊細なアウトロー

そんなことを言った人がいるかどうか不明ですが,
『 もし彼が,あのけたはずれの異才をもったまま,すこし別の家にうまれそだったならば,生きる時代がもうちょいずれていたら,棋界の歴史をぬりかえていたかもしれない 』

戦後間もない,誰もが,ひもじく,まずしい頃はその日を終えるだけで精一杯。仕事など選んでられない。賭博をなりわいとする父から手ほどきを受けた将棋も,その道を清く生きるためではなく,シノギの一つというだけのこと。

よごれたボール紙とか木の切れはしなどに,真っすぐではないマス目の盤,そして不揃いで稚拙な手書きの駒。

されど,互いの駒が動き出し不思議な紋様が盤上に描かれるにつれ,どこからか馥郁たる香りが漂いはじめ,闇に光がさしこむような気分に。破天荒,無頼としか言いようのなかった劇画のごとき彼の人生において,このときの気持だけは,死ぬ間際まで変わることがなかったのかもしれません。

十代半ばで地元では敵なし。将棋で生計を立てるため,高校中退後に上京し上野の将棋センターで住み込み,そして往年の名棋士のもとへ師事する段取りもできて。と,ここまでは順調だったものの,愛情というものがやたらと欲しかったのか,盛り場の女子にイレこんでしまい勤め先の金に手を付けクビ,もちろん弟子入り話もご破算に。


しかたないので,地元へ戻って,心を入れ換えまともに働き,所帯を持って子をなしたのに,その子は数日後に死去。
その悲しみの代償こそが,奇しくも父から伝授された真剣師として修羅場でシノギをけずる道。真剣師とは,賭け将棋で生計を立てる市民のこと。

<新宿の殺し屋>などと恐れられメキメキ頭角をあらわすのに,さほど時間はかからなかった。されど,
こんな極道暮らしなんてマッピラ,と縁切状をつきつけられ離婚せざるを得ないはめに。当然,生活は荒れ放題。

すさんだ暮らしを続けていた頃,ある知りあいから,<真剣なんて危ない橋を渡らんでも,アマ大会ちゅうレッキとしたのがありまんねん。優勝したらそこそこ賞金も出まっせ>,この救いとなるべき蜘蛛の糸をたよりに,真剣師はアマ棋士という表の顔をもつことに。

一体いつどこでどう学んだのか,規格外の才能で,またたく間にアマ名人を奪取。それは,彼が三十代前半あたり。
そして,大山康晴15世に角落ちであっさり完勝してからの1年ほどが,彼の輝かしい頂点だったのかも。

気鋭の田中寅彦5段(現9段)を平手で破り,中原名人には角落ちで,中村修4段(現9段)には平手で勝ち,まもなく棋聖を奪取する指し盛りの森雞二8段には角落→香落→平手で3連勝,米長9段も角落ちで倒してしまい。この絶頂期に負けた相手は,ひふみん(当時十段位),既に引退していたヒゲの先生升田幸三だけ(共に角落ち)。


この快挙に,真剣師からプロ入りした花村元司九段以来のプロ編入が取りざたされるに至ったのですが,身辺調査が進むにつれ,身から出たサビ,あれは出て来るわ,これも出て来るわで,結局まかりならぬということに。
これで,かねてからの念願だったプロで生計を立てる最後の道,蜘蛛の糸は完全に絶たれてしまった。

その後しばらく音沙汰なかったものの,彼の才質に魅了された団鬼六さんの厚意によって一時復活し,再び脚光を浴びたのち,知り合いのすすめで焼肉屋店長という堅気の仕事を。されど,順調だったのはほんの束の間,今度は子持ちの女子とどこかへ逐電(かけおち)してしまうことに。

この頃になると,もうさすがに無理も無茶もきかなくなったのか,まもなく,長年の不摂生がたたって重篤な病に。

ただそれでも,少年時に感じた,盤上の駒たちがはなつ光彩を忘れていなかったのでしょうか,幾度も不義理をかさねてしまった鬼六先生に,死ぬ前にどうしても,今生の思い出に強い相手と勝負したいと対局の段取りを懇願しました。
そして,当時のアマ最強豪に連勝し,その数日後に死去。享年44歳。


彼とは,小池重明(こいけ・じゅうめい)さん。小池さんは,後の天才たちとも少し関わっていたようです。

羽生善治さんが小学生の頃にアマ名人戦予選で記録係をつとめた際,脂の乗りきった小池さんと対面。のちに<自由奔放な生き方と同じように型破りで,とてつもなく強かった>と述懐しました。
 また,「聖の青春」でよく知られる,当時中学1年生の村山聖さんとは平手で勝負したようです。負かされてしまった重明さんは,にっこり,<ぼうや,強いな>,ほめてあげたとか。

藤井聡太君には,小池さんが角落ちで大山15世を負かした棋譜を研究してたという噂も。現実の接点は絶対にありえませんが,詰将棋選手権で優勝した小学生の聡太君を,重明さんの『霊』が,会場でこっそり見てたとしたら,いったいどんな言葉をかけたでしょうか。重明さんは名古屋,聡太君は瀬戸,同じ尾張の出身であることが奇遇。あの天才の感性と,ころんでもただでは起きない鬼のごとき勝負魂が受けつがれたとしたら…

(PS) 主に伝聞,風説などをもとに,自分の感想や若干の想像をちょいと交えました。事実関係などおかしなところがあちこちあるかもしれませんが,ご容赦のほどを。写真で見る限り,重明さんは繊細で優しい顔をしてますね。

2月10日 あいう
posted by Don and Mama Mind at 12:13| きかい | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

セカンドライフ

競馬ファンならよく知っていることですが,重賞競走等で華々しく活躍したのち,種牡馬や繁殖牝馬としてもスポットライトを浴び続ける,ごく小数のスターホースがいる一方で,生涯で数回しか勝てなかったり,あるいは一勝すらできないまま終わったり,また故障のためレースはおろか調教されることもなく引退する馬たちも。

N768.jpgおだやかで人見知りをしない性格のよい馬であれば,乗馬や先導馬としての道を歩むこともありうるし,また,少々名を馳せた馬が,どこか地方に転厩し,短いローテーションでダートコースを相変わらず走り続けることも。

されど,自分の生まれ持った適性にあう第二の人生を送ることのできる馬はごくわずか。それ以外の彼らのほとんどは,決して望んでなどいなかったであろう,殺処分という厳しい現実が待ち受けています。

先月ネット記事にあがっていましたが,数々の名馬を育成してきた角居調教師は,愛する馬たちの,かくも悲しき現状にかねてより心を痛め続け,その名状しがたい<行きつく先(運命)>に対し,なんとか助け舟をだせないものかとずっと思案していたそうです。

速く走るために血を純化され,闘争心がきわめて旺盛である馬は,なかなかツブシが利かず,第二の道を歩もうにも,再教育のためには半年ほどの日数を要するし,当然ながら費用も掛かる。

されど,いつの間にか消えゆく末路では,どうにも忍びない。そこで,角居さんは一計を案じ,ふるさと納税や寄付金などをもとに,岡山にある乗馬場で,引退した馬たちがセカンドライフを歩むべく再教育プロジェクトを始めたそうです。

これまでに再教育を行ったのは,まだ57頭とのことですが,引退馬が活躍できる場を保証すべく資金を確保するスキームを引き続き頑張って続けていきたいとのこと。これはまさしく,馬を心から愛する,素晴らしい<志>ですね。

私も応援します。
もし,<ふるさと納税>のような形で支援ができるようであれば,ぜひ参加してみたいと思います。

2月4日 いろは
posted by Don and Mama Mind at 19:59| 競馬観 | 更新情報をチェックする

つちへと

物置となっている部屋のドアが目に入ると,一度は必ずそこをゆび指し,『 あそこでハナちゃんが待ってるさかい会いに行きたい。あそこへ連れてって 』,とダダこねて困らせる人。

N0767.jpg 一世紀ちかくを元気にすごした原動力はやはり,その健啖ぶりにあるようで,なんでも好き嫌いなく,おそろしいスピードで食べ終わると,まわりに目をやります。

 食が細って,かんだりのみこんだりするのに四苦八苦する人がいれば,『 あんた,それ食べないならわたし代わりに食べてあげるから,ちょうだい 』,を決まり文句にする人。

 さいぜんのダダこねさんに対しては,ハナちゃんコールを発したら,<わかった見てきてあげる>と言って,ドアを開けて覗く様子をきちんと見せてから,<ざーんねん,ハナちゃん今日はまだ来てません>,と言ってあげると,コクリと納得。

また,健啖さんは食べることにいのちをかけてる割には,食後のハミガキが大の苦手。ときどき理由をつけては避けようとするならば,<ハミガキしないと3時のオヤツ食べられないけど,それでもイイのかなー?>
すると,『 しゃあないな。 』

やって来る人はさまざま。ごくふつうに過ごしてきた人もいれば,やまいなどで手足だけがふじゆうな人も。また,高度な技術を教えることをなりわいとしてきた人,人もうらやむ輝かしいキャリアの持ち主なども。
そして,だれにでも,ひとしくおとずれる,おい。

されど,程度の差こそあれ,ほぼ一律に示す傾向とは,こどもがえり。
齢(よわい)を重ねるごとに心身にまとわりついてくる苦悩のアカ。時を逆行していくにつれ,これらのアカは徐々に消え失せ,これがスッカリなくなるところまで,さかのぼっていくようで。

<つちからうまれ,つちへとかえる>という言葉は,ある意味そのような,<鳥がもとの地へと渡り,魚が自分の産まれし水に帰るがごとく,幸せの原点(無)へとさかのぼっていく>ことを本能的にこころみることなのかもしれません。

2月4日 ひふみ
posted by Don and Mama Mind at 09:54| 周辺 | 更新情報をチェックする

2018年02月03日

いさみあし

去年くらいからでしょうか?
教育関係筋が,<竜馬,信玄,謙信,クレオパトラなんぞは歴史の教科書から外すべし>,そんなトキの声を上げているとか。とりわけ,あの竜馬がそのターゲットであることに,<アホか!なんでやねん>,と憤慨する人も多いのでは。

さかのぼればだいぶ前,話すとき夢中になればなるほど首をひっきりなく上下にふり続ける社会科(地理・歴史)を担当する男子の教諭が,このときは首をふることもなく,<最近また坂本竜馬が見直されてるんだ>,と神妙な面持ちで語っていたのを覚えています。

乙女ねえさんが,もうすぐ江戸へ剣術修行に旅立つおとうと竜馬君のため縫い物に励んでいるさなか,げんおんちゃんが<季節外れの若桜が咲いた>と話しかけてくるのんびりした場面で始まる,司馬遼太郎さんの<竜馬がゆく>

当時産経新聞に4年ほど連載された気宇壮大なこの連載小説が,その後の竜馬像に大きく影響を及ぼしたのは間違いないところです。

私も文庫本で二三度読み返したことがあるし,また,息子が小学校低学年だったころ,原作:武田鉄矢,作画:小山ゆうの<おーい!竜馬>というタイトルの20数刊におよぶコミック本を一緒に読んでいたことも。

思うに,歴史学とか考古学は,確たる証拠を積み重ねていくという気の遠くなるような地道な努力のたまもの。そのうえで人物や事跡などについての評価が下され,発見の中身によっては大きく見直されることも。
 とはいえ,その証拠自体が果たして真実かどうかという完ぺきな保証はなく,極端に言えば,<要するに合理的な総意ないしは妥協>に過ぎないのではという疑問も。

たとえ真実ではなかったとしても,そのときの状況次第では(ねつ造というルール違反も含め),むりやり真実として押し出されてしまう場合もあるし,為政者の胸先三寸で,<これ,僕ちんに都合悪いよな,イメージダウンするじゃん。ないことにしちゃうべし>,との一声で真実が闇に葬られてしまうのは,古今東西を問わずよくあること。

いつしかタイムマシンなんかで時を逆行できるようになって真偽を確かめない限り,真相に限りなく近いと類推できたとしても,所詮やぶの中で真相が解明されることはなし。

なので,心情的に納得がいかないということを除けば,さほどの価値があるとも思えない教科書などに名が載ろうが載るまいが,そんなことに目くじら立てる必要はないような気もするのですが…

ただ,(時々発生するアホの目立ちたがり屋どもの<勇み足>とも思えませんが),どうしても国民の英雄を抹消したいのであれば,納得できる根拠を示し,理路整然キチンと説明する責任があるのは,言うまでもありません。

2月3日 ひふみ
posted by Don and Mama Mind at 14:02| 諸々 | 更新情報をチェックする